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June 2003

師匠のこと

西川は昭和62年(1987年)から平成9年(1997年)まで、カワイ楽器のJAZZピアノ教室に通っておりました。なぜJAZZピアノだったかと言うと、特に理由もなくて(笑)。その前はクラシックピアノの教室に通っていたんだけど、4回受けて一向に合格しない薬剤師の国家試験に何としても合格するためにレッスン通うのを中止。それから2回受けて、昭和61年(1986年)の秋にやっと合格。いろんな事が楽になった気がして、再度ピアノのレッスン通う事にする。クラシック・ピアノに戻ってもよかったんだけど、も少しポピュラー寄りの音楽を学んで見ようかな、と思って何の目的もなくJAZZピアノの教室に通う事にする。そして探して探して、やっとの事で渋谷カワイ楽器でレッスンしてくれるところを見つける。タワーレコードの付近、現在のABCマートのあのビルがかつての渋谷カワイ楽器・本社ビルだった。そこで出会ったのが、僕の生涯の”音楽の師”針生正男先生だった。以下、尊敬と愛情を込めて”師匠”と呼ばせていただきまする。

師匠は平成9年(1997年)4月22日にこの世を去りました。今年2003年は師匠の七回忌。そういう節目な今の時期に、師匠のことをここに書きとめておこうと思います。

カワイ楽器渋谷本店・JAZZピアノ教室

隔週金曜日の8時くらい(確か)から1時間がレッスン時間だった。それまで五線紙に書かれた楽譜を見て弾く事が当たり前だったのだけど、コードと譜割りだけで「遊んでごらん」と言われても何もできなかったとか、そういう事がカルチャー・ショックだった。JAZZピアノのノウハウを教えてもらう傍らで、コード理論の勉強も並行して行った。その1年後くらいから、JAZZピアノ教室とは関係無しに打ち込みで音楽作りを始めるんだけど、それがその時から今日にいたるまで大いに役に立った事は言うまでも無い。時には苦になったこともあったけど隔週のレッスンがどれだけ楽しいものであったか。そう言えば通い始めた当時、渋谷駅に向かう途中の西武百貨店の脇でサックスを吹いていたストリート・ミュージシャンがいた。長髪を後ろで縛ったその人こそ後に有名になる三四郎その人だった。西武百貨店に響き渡るサックスの音は、今でも忘れられない。

教室に入って楽しかった事と言えば、先輩門下生たちとの交流も上げられる。結構頻繁に飲み会なんかもあったし、みんなでオスカー・ピーターソンのライブに行ったりもした。後に書くけど、師匠の三回忌には皆で仙台に行って、演奏会をやったりもした。師匠が残してくれた財産のひとつだ。

一応、楽器店の教室なんだから定期的に発表会がある。初めての発表会に僕はキング・クリムゾンの「21st Century Scizoidman」をソロで弾いた。仮にもJAZZピアノ教室の発表会にそんな曲をやる奴はいないよなあ(笑)。繰り返し聴いて耳コピするんだけどどうしてもあのインプロ後のユニゾンのところがわからない。それでどうしたかと言うと、当時会社の寮に住んでいて後輩がオープンリールを持っていたんで、録音して倍の速度で再生したのをカセットに録音し直してもらってそれを聴いてコピーした。後にリットー・ミュージックから「宮殿」全曲パート譜が出たんだけど、それを買って当時書いた楽譜を書き直したりもした。この時の演奏は今でもビデオに残っているけど、何かの機会でもう一度演奏してみたいね。

そう言えば師匠の門下生には、女優経験のある人もいた。いや、違う。その人の妹が女優だったかな。とにかくその人と何とかして関係つけたくて、知り合いが企画した自主制作映画に無理やり出させた事もあったっけ。

一度とてもつらい事があって、会社に連絡も入れないで二日くらい仕事サボってたことがあった。いくあても無く彷徨っていたら、いつの間にか渋谷のカワイ楽器に足が向いているんだな。それでブラブラしていたら、偶然師匠と出合った。師匠は一瞬不思議な顔したけど、「お茶でも飲もうか?」って言ってくれた。何を話してくれたか覚えてないけど、それでずいぶん楽になれた気がする。

作曲家・針生正男

師匠はJAZZピアニストなんだけど、職業作曲家でもあります。ここにその一覧がありますが、一番有名なのはダム建設で水底に沈んだ岐阜の徳山村を描いた「ふるさと」、あるいは、最後の夜にピアノを弾きたいと学校をたずねる特攻隊員の物語「月光の夏」かな。ちなみに「月光の夏」には、師匠はちょこっと出演もしています。「遠き落日」や「ハチ公物語」で有名な神山征二郎監督と親交が深く、監督の作品も何本か担当しています。あと、アニメ作品「伊勢湾台風物語」を手がけているんだけど、それは流石に縁を感じた。伊勢湾台風は、名古屋の実家が直撃を受けたりと僕にはとても因縁の深い災害である。詳しくは書かないけど、あの台風は僕が生まれる前の事件だけど、僕の出生に深くかかわっている事件なのだ。

師匠の作品の特徴は、よくも悪くも日本映画らしい作風。だから、決して映像を損ねるほど自己主張をする事はなくまさに”劇伴”にふさわしい仕事ぶりでした。時折デモテープを聞かせてくれて、「出来はどうかな?」と意見を求められたりもした。

ところで師匠の幻の作品に「河童の三平」のアニメ版があります。にっかつで映画化されましたが、デモまで作って採用されなかった模様。僕は水木しげる作品も大好きなので、是非師匠にやってもらいたかったけど。そういやデモ曲聴かされて、マニアっぽい批判してしまったっけ。師匠、傷ついたかな。今ひとつが最近聞いた情報であのカルトムービーと名高い「幻の湖」も、オファーがあったそうだ。最高!その話を裏付ける証拠として、1986年に同じ橋本プロの「旅路 村でいちばんの首吊りの木」を担当している。

ラグランジュ音楽工房

平成元年(1989年)にSEの仕事を続けるため有限会社ウィルビーを設立するが、その年の暮れに1枚の自主制作CDを作ってインディーズ・レーベルの真似事を始める。結局CD作っても売ることの大変さを痛感して、たった1枚でCD作りを断念する。だがせっかく立ち上げた音楽事業、なんとか継続する方法はないものかと始めたのが、”音楽製作を請け負う事業”だったのだ。はたから見れば、”会社ごっこ”の延長にしか見えないこの事業だけど、当時の宇宙船誌やBクラブ誌に、弊社の広告が出ているとこからも実に本気だった事がよくわかる。

そういう訳のわからん動きをしていた日々、師匠の方からある人を紹介される。それが橋本昌司さん。師匠の作曲のお弟子さんだった人。ここから話がいろいろに転がっていく。その頃はインディーズ映画関係のつきあいしかなかったのだけど、ある日その中の知人の一人が連絡をとってくる。その彼が持ってきた仕事が、新潮社のトイレ猫のビデオ。レイ・バーウィックという人が書いた「トレーニング・ユア・キャット」という本のビデオ版だ。これだけの素材で、セル用ビデオ2本、レンタル用3本の仕事を担当した。時は平成バルブ期。それゆえなのか、それなりのお金になってしまった。何でもやってみるものだと思った。

「ラグランジュ音楽工房」はそういう訳で僕が音楽の仕事を取ってきては、橋本さんが曲を作ってという動きが定着。形になったものは少ないけど、ゲーム音楽の仕事が来たりとかれこれ5年くらいやっていたかな。このビジネスはいつの間にか尻すぼみになってしまい、橋本さん自体も現在は実家の仕事を手伝っていて作曲家は休業中。原因はやっぱり”バブル終焉”でしょう。それとまあ、インディーズ・レーベルのようなものを夢想していた僕にとって、マージンだけとって右から左へ仕事を回すだけの仕事は何らアーティスティックな事はなく、クライアント筋の人との交流はおもしろかったけど、直に情熱は冷めていったのだ。

でもさすがに商業映画で仕事をしている師匠に見合う仕事は最後までとれなかった。そんな中、師匠の方に来た仕事を僕と橋本さんで手伝う事になる。それが劇団KSプロジェクトのミュージカル「龍」だった。1993年の事だった。宝塚の好きな女の子達が結成したアマチュア劇団のミュージカル企画の音楽を師匠が依頼され、曲の打ち込みなんかに僕や橋本さんが借り出され、テープ編集を始めしまいには当日の音響まで手伝ってしまった。女の子だらけの劇団だけにいろいろあったけど、師匠と合宿まで行きなんか忘れられない思い出になった。

そう言えば、こんなおもしろい話もある。平成3年(1991年)頃、当時町田に住んでいてアパートの真向かいにあるビルに、なんだかCDをいっぱい棚に並べている店舗があった。気になって連絡を取ってみると、どうも輸入CDの卸をしている会社らしい。主にユーロビート系のCDを輸入し、日本のディスコ(当時はまだクラブとは言っていなかった)に卸すのがメインの仕事なのだけど、今度自社でも音楽製作を始めるという。”ダンスミュージック専門”のレーベルを立ち上げると言うのだ。僕もそんなわけで、音楽工房をやっていたんで「それならお知り合いのミュージシャンをご紹介ください。」という事で、橋本氏のデモ他歌い手や映像作家まで紹介する。マンションの地下にあるその会社の製作スタジオまで覗いた事があるけど、当時最先端の音楽製作環境だったMacにVisionというセッティングでの製作を目の当たりにした。そうこうするうち、その会社は成瀬に引っ越す。それ以降疎遠となり、僕も平成4年(1992年)初台に引っ越したわけだけど、ある日TVでその会社のCMを見て驚く。日本で最初の”ダンスミュージック専門レーベル”は当時、お立ち台などで有名になった「ジュリアナ東京」でチケットとともにCDを付けて売る事で業績を伸ばしていき、いつしかTV-CMまで打てるような規模になった。その会社の名前、「エイベックス・トラックス」という。

お別れ

別れは突然やってきた。平成9年(1997年)2月のとある土曜日、橋本氏から師匠が入院した事を聞き、あわてて菊名の病院にかけつける。原因はよくわからないが、いつもの師匠でちょっと安心、だけどなんだか悪い予感が胸をよぎる。実はこの日、特撮仲間と「怪奇大作戦」の1エピソード「京都買います」をたどるツアーに行く予定だった。でも、仕事がキツくなったり挙句の果ては足を捻挫したりといろいろ悪条件が重なり、止む無くキャンセルしていたのだった。今から思えば、なんだか不思議な気がする。

その後橋本氏より、実は肺癌が脳に転移して脳腫瘍となり、余命いくばくも無い事を聞く。あまりに突然の事。ただしこれは公にすると騒ぎが大きくなるので、ごく一部の人だけに伝えたという事だった。カワイ楽器のJAZZピアノ教室では、他の講師も含めて僕だけが知っている事実。生徒となって10年に及ぶ僕は、いつしかここでは最も師匠に近しい存在となっていた。だから連日教室のみんなの問い合わせを毎日のように受けつつ、ほんとのことは言えないでいた。とても辛い日々だった。

師匠が菊名の病院にいる間は毎週顔を出した。肉親がいる仙台に移ってからは、正直言ってしばらく師匠の事も忘れていた。そしてその年の4月22日、師匠はこの世を去った。これまでも祖父や祖母などを亡くした事はあったものの、ここまで身近な人を亡くすという経験は初めてだった。

それから1年後、10年通った渋谷カワイ楽器は、現在ABCマートに変わってしまった。師匠が入院した時点で、他の先生につく話もあったのだけど、僕は師匠以外に師事する気にもなれず自動的にjカワイ楽器の教室をやめる事になる。実質上、僕のJAZZピアノ勉強時代も今のところここで終わる。

その後、亡くなった年には東京は祐天寺で「メモリアル・セッション」と題して演奏会を催し、三回忌には門下生で仙台に行き地元のレストランで演奏会をしたりもした。僕は昨年を除いてその後も毎年、一度は仙台へ墓参りに足を踏み入れている。

今の僕はJAZZの世界からも離れ、一番好きだったロック・キーボーディストとしてセッションに参加したりライブに出たりしている。今でもなんか困ったりした事があると、師匠が生きていればなあとしょっちゅう思う。でも、大丈夫だよ。

なんたって”I wanna be called the Musician.”だから。

P1000214_new

平成15年(2003年)4月27日・師匠の七回忌の法要の後。
師匠の墓がある仙台の徳照寺の境内。
そこにある共同墓地の前にて。
師匠の妹さんの家族、カワイ楽器門下生、
そして、生前の親友・佐藤和丸和尚とともに。

暖かくて平和な春の一日だったよ。

レコード感想文~Led Zeppelin ライブCD&DVD~

2003年6月、Led Zeppelinの27年ぶりのライブ素材が全世界で発売になった。世界一ブートの多いこのバンドのオフィシャルのライブ素材は、この規模のバンドとしては世界一少ない。1997年には「BBCライブ」がリリースされたけど、僕にとっては27年待たされた気分だ。
27年前は高校1年生。文学少年的傾向の強かった僕は、読書ノートのレコード版みたいなものをつけていた(当然、本家の読書ノートも書いていたけど)。そう、これはコラムとかレヴューなんてえらそうなもんじゃない。これは27年ぶりに書くただの「レコード感想文」です。ただし、心は16才なんだから。

■レッド・ツェッペリン 伝説のライブ-HOW THE WEST WAS WON-(CD)
伝説のライヴ -How The West Was Won-

ロング・ビーチ・アリーナ/LA フォーラム 1972

CD 1

LA・ドローン(*)
移民の歌(*)
ハートブレイカー(*)
ブラック・ドッグ(**)
丘のむこうに(**)
貴方を愛し続けて(*)
天国への階段(*)
カリフォルニア(*)
ザッツ・ザ・ウェイ(**)
スノウドニアの小屋(*)

CD 2

幻惑されて(**)
強き二人の愛(*)
ダンシング・デイズ(*)
モビー・ディック(**)

CD 3

胸いっぱいの愛を(**)
ロックン・ロール(*)
オーシャン(*)
ブリング・イット・オン・ホーム(**)

(*)・・・ロング・ビーチ・アリーナ (**)・・・LAフォーラム

CDのタイトルは映画「西部開拓史」から取ったらしい。「いかにして西部は征服されていったか?」といった意味なんだろうか?つまりこれは「いかにわしらがアメリカを征したか?」と言うJimmyさんの自慢話なんだろうか?それはもしかするとものすごく放漫な事なのかもしれない。でも、当時の彼らはそういう態度がふさわしい存在だった。それはこのCDを聴けばわかる。

とにかく音がいい。爆音系と言っていいほどのデカイ音なんだけど、ディティールがくっきりしている。「天国への階段」では、ロバートの最後の雄叫びを合図に全パート・リズムユニゾンのブレイクが入ってハードなギターソロに入っていくのだけど、なんとそこでボンゾはタイミングあわせのハットを叩いている事がわかる。この部分って自分達で演奏すると、たいがい合わないんだ。おもしろいです。

「幻惑されて」には、「聖なる館」に収録されているZep 版ファンク「クランジ」のカッティングが出てきてびっくり。さらに「胸いっぱいの愛を」の途中では、「幻惑されて」が混じってきたりと変幻自在。

それにしても「胸いっぱいの愛を」はほんとに楽しい。リフ主体の一見普通のハードロックから一転、テルミンをフィーチャーしたシュールなサウンド・コラージュの展開を経て、怒涛のロックン・ロール・スタンダード・メドレー、そして最後にリフに戻る。一体どこからこういう発想が出てくるのだろうか。
DVDの方はいろんな時代の様々な素材が散りばめられているけど、それ故散漫な印象は否めない。CDの方はその分、集中的にひとつの時期のステージをたっぷり堪能できる。「永遠の詩」のレコードを買った頃は、半年の間はほとんど毎日これを聴いていた。別に半年間他のレコードを買えなかったわけでもないけど、とにかく毎日学校から帰って聴くのが楽しみでしかたがなかった。今はそんな気分には到底なれないけど、それでも今日で約2週間ほとんど毎日Zep ばかり聴いていた。

■LED ZEPPELIN DVD
レッドツェッペリン ディーブイディー

DISK.1

メニュー映像は、どこかの空港で機材の搬出をするメンバー他のモノクロ映像。アイスランド・レイキャビクのテレビ映像らしい。

ロイヤル・アルバート・ホール 1970

メニュー映像その1は、アルバート・ホールの楽屋の様子。映画「永遠の詩」でも、楽屋の映像にはシビれたもんだった。

ウイアー・ゴナ・グルーヴ
君から離れられない
幻惑されて
ホワイト・サマー
強き二人の愛
ハウ・メニー・モア・タイムズ

メニュー映像その2はジョンジーのハモンドオルガン・ソロ。曲はおそらく「サンキュー」

モビー・ディック
胸いっぱいの愛を
コミュニケ-ション・ブレイクダウン
カモン・エヴリバディ
サムシング・エルス
ブリング・イット・オン・ホーム

オープニングはベン・E・キングの「GROOVIN'」を改題してカヴァーしたと言われる「WE'RE GONNA GROOVE」。とにかく若いぞ!ツェッペリン!写真で見た事はあっても、動く映像を見るのはほとんど初めて。すさまじいまでのエネルギー。特に壊れ具合がものすごい「ハウ・メニー・モア・タイムズ」。歌部分に入る前の長い事長い事。後に「胸いっぱいの愛を」で大開花するロックンロール・メドレーなどの展開は、この頃はこの曲の方でやっていたんだな。
「胸いっぱいの愛を」はまだ大作と言える程の長さではないけど、タイトにまとまっていたこの頃は本来の”ポップ・ミュージック”的な姿と言えようか。そして、「コミュニケ-ション・ブレイクダウン」が大トリ。絨毯爆撃。
そしておそらく、アンコールと思しきカヴァー2曲のカッコよさ。最後の決めは「ブリング・イット・オン・ホーム」。ボンゾのドラミングは、16分のギターのカッティングをそのまんまユニゾンでなぞる!

EXTRA

メニューの映像は、Zeppelinのテープ倉庫。もしかすると、Jimmyさんち?バックは「ハートブレイカー」。

コミュニケイション・ブレイクダウン(PROMO) - 1969

DENMARKS RADIO - 1969
コミュニケーション・ブレイクダウン
幻惑されて
ゴナ・リーヴ・ユー
ハウ・メニー・モア・タイムズ

SUPERSHOWS - 1969
幻惑されて

TOUS EN SCENE - 1969
コミュニケーション・ブレイクダウン
幻惑されて

まずは以前にも見た事ある「コミュニケイション・ブレイクダウン」のプロモ映像。Zep の数少ないプロモがこれと、90年代代入ってボックスセットが出た時に作られた2本というのが何とも。ほとんど演出も何もない演奏だけの映像だけど、ボンゾはここでもきっちり叩く。反面Jimmyさんは、全然ちゃんとギター弾いていない感じ。
続いて、デンマークのTVショウの映像が4曲。これだけで30分近くあるのだ。スタジオに入ったバンドを囲んで客が車座になって座って見る中での演奏という、大変珍しい(うらやましい)シチュエーション。そんなコンパクトな中でも、やってる事はステージと変わりない。ここでも「ハウ・メニー・モア・タイムズ」はすごい事になっている。ヘヴィーと言われる初期2枚の中でも、すでにアコースティックとの融合が図られているジョーン・バエズの「ゴナ・リーヴ・ユー」も、ここではかなりエレクトリックなナンバーに生まれ変わっている。

お楽しみはこれだけでは終わらない。音声メニューにはどこかの空港に到着して歓迎を受けるメンバーのモノクロ映像。バックは「天国への階段」。クレジット映像は、「ハートブレイカー」をバックにさまざまな映像のコラージュ(映画の仙人役まで!)。尻尾まであんこの詰まったタイヤキ状態。

DISK.2

メニュー映像は、どこかの体育館のようなところでの「幻惑されて」のギグ。

移民の歌 1972

これはCDの2曲目に入っているテイクと同じようだ。だから1曲目の「LA ドローン」も入っている。これは曲でも何でもなくただの客席のざわめきなんだそうだ。何が「どろ~ん」だ。クレジットまで入ってるし。

マジソン・スクエア・ガーデン 1973

メニュー映像は、ガーデンの舞台裏。基本的にスタジアムなのでやたらにだだっ広い。映画「永遠の詩」でもよく映っていたね。当時高校生だったのだけど、こういうオフステージ映像に死ぬほどシビれていたなあ。バックは「貴方を愛し続けて」。凄腕マネージャー、ピーター・グラントをふんだんに見られる。警備員と話すJimmyさんがいい感じ。

ブラック・ドッグ
ミスティ・マウンテン・ホップ
貴方を愛し続けて
オーシャン

この世で最初に見たZep 映像、映画「永遠の詩」と同じ頃の映像。まずは映画では一部しか収録されていなかった「ブラック・ドッグ」。ロック永遠の謎のひとつにこの「ブラックドッグ」のビートがある。一体どこが頭でどういうタイミングになっているのか?スタジオ・ヴァージョンでは、ロバートのボーカルの後少しの間をおいてリフに入るのだが、ここで何拍かカウントしてタイミングを合わせているかのように思える。だが、この映像では少しの間も置かずに楽器が飛び込んでくる。しかもビシッと合う。一体なんじゃこりゃ。
フェンダーローズが鳴り捲りの「ミスティ・マウンテン・ホップ」。ボンゾのドラムもさらに野蛮。
ジミーさんのフリーなギターソロから曲イントロにつながる「貴方を愛し続けて」。楽器がいっせいに入ってくる瞬間がたまらない。
最後は「聖なる館」から「オーシャン」。「聖なる館」は今となってみれば、最もリズム的に多彩になったアルバムと思える。レゲエ・ファンク・そして一体なんだかわからない「永遠の詩」。「オーシャン」を聞くとレッド・ホット・チリ・ペッパーズは直接ここにつながってるんだなと思える。

アールズ・コート 1975

メニュー映像はどこかのストリート。途中から道を横切るメンバーの姿が映る。バックはおそらく「スノウドニアの小屋」に入る前のアコギのアドリブ。

カリフォルニア
ザッツ・ザ・ウェイ
スノウドニアの小屋
死にかけて
トランプルド・アンダーフット
天国への階段

この映像では3rdのB面が大好きな僕としてはアコースティック・セットが見物。高校生の頃雑誌に載ってたステージ写真に、ジミー、ロバート、ジョン・ポールが椅子に座って演奏しているものがあった。Jimmyさんはアコギ、ジョン・ポールがマンドリン。ライブアルバムの暴れん坊ぶりからは程遠いそのたたずまいを見て、「一体何の曲を演奏しているんだろう。」と想像をたくましくしていたっけ。今、その映像が最良のコンディションでこの手に。感無量である。
3曲目の「スノウドニアの小屋」でボンゾが加わってくるけど、そうか、そうするとそれまでずっと我慢して待ってたわけか?で、ジョン・ポールはここで何やってたかというと、なんとウッドベース(アップライト・ベースと言うらしい)!そんなことがいちいち楽しいわけです。
 後半は「フィジカル・グラフィティ」から2曲。まずは「死にかけて」。Zep 大好きなBlack Crowsがフジロックで完全コピーでやってたなあ。そして「トランプルド・アンダーフット」の暴虐ぶりには鳥肌が立つ(すげー走ってるし(^^;;;;))。そして「天国」で泣く。あと、シナモン(名古屋在住のZep 完コピバンド)曰く”ジミー・ペイジ以外誰も使っていない”通称パンダ・ギターの使用も確認できたのがうれしい(笑)。ロバートの顔メチャ丹精です。

ネブワース 1979

メニュー映像はステージ映像の抜粋。近年サッカーの試合などで客席から聞こえてくる客の合唱が流れている。そうそうイングランドはサッカーの国だった。

ロックン・ロール
俺の罪
シック・アゲイン
アキレス最後の戦い
イン・ジ・イヴニング
カシミール
胸いっぱいの愛を

なんかミュージシャン系に評判の悪いネブワースですが、私的には今回の目玉のひとつ。何せアールズコートでもそうだど、当時「ミュージックライフ」や「ロッキンf」などでスチールしか見た事のなかったZep が動いているのが何より新鮮だった。ここはもう「プレゼンス」の曲がライブで聞けるだけでも貴重です。感動です。
たぶんラジオで初めて聴いたZep ナンバー「アキレス最後の戦い」。「プレゼンス」が新譜だった頃は、僕はもうロックの果てしない道に足を踏み入れていた頃。でも、まさかそれから数ヶ月後にこのバンドを以降30年近く追いかける事になろうとは、夢にも思わなかった。レコードでは数え切れなく重ねたギターが空前絶後の頂点サウンドを生み出すのだけれど、ライブではたった1本のギターで延々と弾き切る。そして、寄る年波が目立ってきたジミーさんやプラントさんにに比してすさまじさは一向に変わらないボンゾの頼もしさ。だけど、リフだけで延々ごまかす「胸いっぱいの愛を」はさすがにつまらない。

ネブワースのツアーは、その後ロバートの息子の突然の死によって中断する。「プレゼンス」の頃は、交通事故にあい車椅子に乗ってレコーディングに参加していたというロバート。何かの本で読んだが、この頃のZep は呪いを受けていたとしか思えない状態だったそうな。その理由が一説には黒魔術に明け暮れたジミー・ペイジに対する魔界からの報復という話があるのだが、そうなのかねえ?だってJimmy さん、今でもピンピンして西新宿に時折出没してはブートをごっそり没収してるし。このおっさんの傍若無人ぶりは、どんな悪魔だって尻尾まいて逃げそうな気がする。「悪魔を追い払う最善の方法は、悪魔をあざ笑う事だ」とは、U2のボーカリスト・ボノの弁。

ネブワースの翌年の1980年、僕は二十歳になった。その二十歳の誕生日の翌日にボンゾことジョン・ボーナムの突然の死をラジオで知る。それから、数ヵ月後Zep はひっそりと解散を宣言する。そしてさらにその数日後、もう一人のジョンも凶弾に倒れこの世を去る。世界的な事件と並行して、僕は一人暮らしをはじめ初めて女の子に告ってふられた。僕の70年代はこうして幕を閉じたのだった。

EXTRA

メニューの映像は、ビデオテープの編集作業。これ以上劣化しないうちに、早めの商品化を切望!バックは「サンキュー」。さらにさらにプロモのメニューには、今回収録されていない「永遠の詩」のブート映像がなんとフル収録(!)。てんこ盛り。

NYC PRESS CONFERENCE - 1970

DOWN UNDER - 1972

ロックン・ロール
バンド・インタビュー

THE OLD GREY WHISTLE TEST - 1975

ロバート・プラント・インタヴュー

丘のむこうに(PROMO)
トラヴェリング・リヴァーサイド・ブルース(PROMO)

音声メニューには「胸いっぱいの愛を」の途中のブート映像。おなかいっぱいです。

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